スマホを捨ててガラケーに回帰する米国の若者たちに、私は強く共感する。
- 2023/02/08
- 04:57
<■アプリもGPSもタッチ画面もない
16和音のメロディーが届けた、新着メッセージ。心を躍らせ、小さなディスプレイで夢中になって返信をつづる。切手サイズの写メを送り合えば、粗い画像の向こう側にたしかなつながりを感じられた――。
1990年代から2000年代にかけて花開いた「ガラケー」文化がいま、アメリカで一部の若者の心をわしづかみにしている。
彼らが使う携帯には、アプリもGPSもタッチ画面もない。数字の並ぶキーパッドと、10文字も打てば折り返してしまう小さなディスプレイがすべてだ。必要なときには最小限の通話を行い、お世辞にも高画素とは言えないカメラで友人とのひとときを記念に収める。
惹(ひ)かれる理由はさまざまだ。ある青年は未知のガジェットとして新鮮味を見いだし、通知の嵐に辟易(へきえき)したある少女はガラケーに乗り換えて自分らしい時間を取り戻した。 不便なガジェットをあえて相棒に選ぶことで、外出すればリアルな街とのつながりが感じられ、自分自身の脳を使ってものを考えるようになったという声もある。
20年前の若者が未来を感じた折りたたみ式の電話は、2023年になっても同じように若者たちを魅了しているようだ。
こうした旧式携帯は、アメリカではフリップフォン(折りたたみ電話)などと呼ばれる。狭義のガラケーは日本仕様の製品を指すが、本稿では便宜上、アメリカのものも含めてガラケーと表記している。
■ガラケーを使う高校生クラブが立ち上がった
米ニューヨーク・ブルックリンに位置する広大なプロスペクト公園の片隅に、市民に愛される中央図書館が居を構える。図書館のホールへと続く石段が、「ラッダイト・クラブ」のメンバーたちの集合場所だ。 ニューヨーク・タイムズ紙は、スマホを使わないこの一風変わった高校生クラブの活動を報じている。
記事によると、日曜日になるとどこからともなくメンバーが現れ、図書館の石段へと集う。InstagramやSnapchatでグループチャットが届いたから来たわけではない。約束の時間に、約束の場所に集まったのだ。
メンバーの一人、高校3年生のオディール・カイザーさんは、同紙に語る。「晴れても降っても、たとえ雪の日であっても、毎週日曜日になると集まります。お互い連絡は取らないから、だからこそ来なくてはいけないんです」
メッセージ1通でドタキャンできない状況が、仲間への責任感と結束を生んでいる。
彼らは意図的にテクノロジーから距離を置いている。メンバーの一部はスマホではなく、あえてガラケーしか持たない。スマホを持っているメンバーも、集会中は目に付かない場所にしまっておく。
メンバーたちは落ち葉を踏みしめて丘をのぼり、混雑したパークのなかでも静かな一角に着くと、手頃な丸太を探してきて輪を作る。そのうえに腰掛け、思い思いの時間を過ごすのが通例だ。
スケッチをし、読書に興じ、あるいはただ風のリズムに耳を傾ける。この時間だけは、だれかのきらびやかな自撮りに「いいね」する必要もなければ、溜まったソシャゲ(オンラインゲーム)のライフを消費する必要もない。
■SNSで燃え尽きた17歳女性に起きた変化
ラッダイト・クラブの名は、10世紀にイギリスで起こった機械化反対運動に由来する。メンバーは文明を捨てたわけではないが、スマホとの距離を見直そうとしている。
メンバーで高校4年生のローラ・シュブさんは、ニューヨーク・タイムズ紙に対し、「折りたたみ携帯を手にした瞬間、すべてが変わりました」と語る。
「脳を使い始めたんです。自分自身を人間として観察するようになりました」。本を書く余裕も生まれ、すでに十数ページを書き進めた。
クラブを立ち上げたのは、17歳のローガン・レーンさんだ。ソーシャルメディアに燃え尽きた彼女は、はじめにInstagramのアプリを削除し、ついには自身のiPhoneを箱にしまった。生まれた瞬間からこの世にスマホがあった彼女にとって、これが新しい扉を開いた。
「頭で考えるようになりました」と彼女は言う。iPhoneのない生活は、それまでとまったく違うものだった。図書館で小説を借り、地下鉄のグラフィティに目を奪われ、新しい友人たちと知り合った。
ブルーライトに悩まされず、目覚ましの力を借りることなく朝7時に起床するようになったという。iPhoneを運河に投げ捨てることまで夢想したが、さすがにそれは思いとどまった。 両親はおおむね満足している。夕食の席では、ローガンさんからその日の冒険物語を聞くことができるようになった。ただし、安全性だけは気がかりだ。スマホのように位置情報を把握できなくても、せめてガラケーだけは持って出掛けてほしいと、両親はローガンさんの説得を試みている。
最近、ローガンさんの母親は、スマートフォンでTwitterを使い始めた。そして案の定、早くもTwitter疲れに直面している。ローガンさんはニューヨーク・タイムズ紙に対し、「ちょっとだけ優越感をあじわえるので、この状況は気に入っています」と笑う。
■2007年から世界は大きく変わった
2007年を契機に、ガラケーがふつうだったそれまでの携帯業界は一変した。
同年1月9日、サンフランシスコのモスコーニセンターで開かれたApple製品の見本市、マックワールド。基調講演に登壇したスティーブ・ジョブズCEO(当時)は、大入りの観客にステージ上から笑顔を振りまき、こう語りかけた。
「ご来場ありがとう。われわれは今日、共に歴史の1ページを刻むことになる」
後世に残るほどに革新的な、3つの製品を発表するという。タッチスクリーン搭載のiPod、まったく新しい携帯電話、革命的なインターネットデバイスの3つだ。
壇上のスクリーンには3つを象徴するアイコンが映し出されたが、様子がおかしい。代わる代わる表示されるアイコンは次第に速度を増し、まるで互いに融合するかのようだ。
観客からどよめきが漏れると、自信のある製品を発表するときはいつもそうであるように、いたずらな笑みを浮かべながらジョブズは告げた。
「そろそろ気づいたかい? これらは3つの別々のデバイスではない、1つのデバイスだ。われわれはこれを、iPhoneと名付けた」
クパティーノの本社社屋で2年半をかけて秘密裏に開発されていたiPhoneが、世の中に解き放たれた瞬間だった。
■携帯電話のスタンダードになったiPhoneとAndroid
当時としては革命的だった全面スクリーンと、直感的なタッチ操作、そしてAppleならではの親しみやすいインターフェース。iPhoneの登場は、ガラケーを過去のものにした。
業界を牛耳るはずのAppleだったが、未来を見通すジョブズにとってさえ計算外だったのは、競合OSとなるAndroidの登場だ。Mac OS(現macOS)内部の検索機能を重視していたAppleは当時、取締役会にGoogleのエリック・シュミットCEO(当時)を迎えていた。
ジョブズはiPhoneが「他社のあらゆる携帯の5年先を行く」と豪語したが、その裏側を支える数々の研究開発の成果は、すべて敵の親玉に筒抜けだったのだ。
iPhone発表からわずか10カ月後にGoogleがAndroidを発表すると、iOSのリードは急速に縮小。ジョブズは激怒しシュミットを取締役会から追放したが、後の祭りだ。以来、両OSはシェアを二分しながら、世界にスマートフォンを浸透させてきた。
■スマホしか知らない世代にはレトロなアイテムに見える
こうしてスマホは携帯電話のスタンダードとなった。ところがいま、ガラケーを知らないアメリカの若者たちにとって、かえって旧式の機種が興味をかき立てている。
ソーシャルメディア疲れで距離を置きたい、通話だけできればいいという需要に応えるほか、レトロでファッショナブルなアイテムとしても注目されているようだ。
米CNNは、「Z世代がいま熱狂する最新の『ヴィンテージ』アイテムは、1990年代半ばにミレニアル世代のあいだで流行した、あの折りたたみ携帯である」と報じている。
ソーシャルメディアに気を散らされる心配がないだけでなく、まるで90年代の映画『マトリックス』に登場する「Nokia 8110」のようだとして、レトロな魅力を放っているようだ。
■乗り換えを勧めるインフルエンサーも
低画質のカメラが生み出す独特の風合いも新鮮に受け止められ、ガラケーのカメラでいかに美的な写真を撮るかを指南する動画もTikTokに登場している。
2台持ちで使い分ける若者もいる。CNNによると、イリノイ大学のある学生はスマホを持っているが、人と会うときにはあえてガラケーだけを持って行くという。人々の目を引き、新しい友人関係をつくるための絶好の会話の糸口になるようだ。
別の学生はCNNに対し、「折りたたみ携帯を持って出掛ける人々は増えていると思います」と語る。
「楽しくてノスタルジックだし、率直に言って雰囲気がいいですから」
アメリカではいまでも新旧の機種が販売されており、手頃なものでは契約プランによって20ドル前後から手に入る。
米俳優のダヴ・キャメロンがガラケーに乗り換えたほか、TikTokのインフルエンサーのなかにも乗り換えを勧める人々が出てきた。
■画面越しでは見られない世界があると、若者たちは気が付いた
スマホの登場は世界を変えた。人々はいつも情報と接することができ、すきま時間を無駄にしなくても良くなった。移動中にニュースを確認し、仕事のメールに返信し、そして子供の居場所さえ手軽に確認できる。
だが、すきま時間を有効活用できる世界は、すきま時間が奪われた世界でもある。街の喧噪(けんそう)を感じながらただ歩いたり、電車に揺られながら車窓を眺めたりする時間は、ずいぶんとぜいたくなものになった。
スマホ越しにつながろうとするほど、心はすり減る。ガラケーならどうだろうか。連絡先交換を持ちかけられての「LINEやってないんです」は時として説得力に欠けるが、「ガラケーなんです」と取り出してみせれば角は立たないかもしれない。
ガラケー全盛期よりも少しばかり大きくなったスマホのディスプレイは、私たちからますます多くの時間をのみ込んでいっている。それと反比例するかのように、実世界への興味は驚くほど小さくなった。しじゅう画面越しの世界を眺める若者たちが、スマホ疲れに悩むのも無理はない。
スマホのない生活は、まるで別のゲームだ。空を見上げて雨が降るかを占い、道行く心温かい人々に場所を尋ねながら、自分が信じたルートで目的地へと向かう。スマホにぎっしりと詰め込まれた演算チップではなく、自分自身の脳で判断する人間らしい体験がそこにはある。 もちろん、現代社会を生きるすべての人々が実践可能な試みではないし、スマホの存在が悪というわけでも決してない。それでも、ガラケーひとつをポケットに突っ込んで街へ繰り出すニューヨークの若者たちは、ちょうど20年前には誰もがそうであったように、手探りで世界を生きるやり方に魅力を見いだしているようだ>(以上「 PRESIDENT」より引用)
青葉やまと氏(フリーライター)が「懐かしの「折りたたみ式ケータイ」に乗り換える高校生が続出…ジワジワ広がる「スマホ疲れ」という本音」という論評をPRESIDENTに掲載した 。これは日本にも大きな変化をもたらす前兆かも知れない。
奇しくも「高校生もスマホ断ち、ガラケー回帰へ─米「テクノロジー嫌いクラブ」の若者たち」と題する記事をCURRiERが掲載した。副題には「SNSやスマホに囚われない「本当の人生」を生きたい」とある。
不思議な光景を見た経験があるのは私だけではないだろう。街のファミレスや喫茶店で、若いカップルが話もしないで各自がスマホを弄っている、という光景を。何のために二人は会って、何のためにそこに同席しているのか、と怪訝な思いに囚われた。
スマホの中の世界が現実世界よりも、目の前の異性よりもスマホの数インチの画面の中の方が興味深いのか、と驚いた。彼らは何処で生きているのか、と彼らの人間としての存在空間に思いを馳せるまでもなく、その孤独な生き方に嫌な思いがした。
バーチャルはあくまでもバーチャルでしかない。スマホの中の景色は実物とは異なる。スマホ越に出会う人物も、実際の人物とは異なる。現実世界で出会ってない人に、肌の温もりを感じることは出来ない。スマホはあくまでも通信手段とPCが合体したものでしかない。
日曜日に自分自身の時間を取り戻すにはスマホを手放すしかないだろう。現在の若者たちの多くはスマホに時間を取られ過ぎている。実体験を積み重ね、人格形成に重要な時期にバーチャル世界でだけ人と接触していては肌の温もりが欠落してはしまわないだろうか。
米国の若者たちが二つ折りの携帯に回帰しているという。日本では2024年にガラケー・サービスを停止するという。高額なスマホにすべて置き換える方が携帯電話各社にとって商売的には良いのだろう。しかし、それがユーザーにとって良い選択なのか。
私もつい最近までガラケーを使っていた。PCモバイルを日常的に使っていればスマホの必要性はさほど感がなかった。現在もスマホでなければならない、とは思わない。ただガラケーサービスが2024年に終了するというから、今から慣れておく必要があると感じてガラケーからスマホに乗り換えただけだ。
スマホに乗り換えて感じるのはバッテリー消費が激しい、というのが第一印象だ。次に一日に何度も起動して、山のように届いている「しょうもない」メールを削除する作業をしなければならないから迷惑だというのが第二の印象だ。アクセスして来るのは必要としない、しょうもないメールが大半だ。
本当に世間には暇を持て余し、誰かと通信し続けなければならないスマホ依存の人が多いのだろうか。そうではなくスマホを開いてみなければ、誰かから来ている重要なメールを見落とすのではないか、という強迫観念に囚われているのだろうか。
人生は極めて短い。その短い人生の中でも、キラメクような若い時期はほんの一瞬で過ぎ去ってしまう。その一瞬をスマホの数インチの画面と「にらめっこ」して過ごすのは勿体ない。スマホを捨ててガラケーに回帰する米国の若者たちに、私は強く共感する。
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